昭和47年5月6日 朝の御理解
                    中村良一
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」



ここには、人間だけにしか出来ないこと。それも、その気にならなければ出来ないこと。そういう事は、人間として、有難いことではないかと。という事を、ここでは、教えておられるだけでございますから。なるほど、そうだと、先ず、分からな、いかんわけですね。七十六節は、そんな、助かられる道とか、助かられる手立てといったような事は、ここには書いてはないわけです。おかげを頂く手立てという事は。ね。人間、この、人間だけしか出来ないこと。ね。牛馬が、例えば、水に溺れておっても、落ちておっても、それを引き上げることは出来ない。人が見ると、それを助けてやることが出来る。それは、一つの例えでありまして、ただ、そういう意味の助けという事ではない訳ですね。
例えば、金が無いと言うて難儀しておられる方に、金を恵んであげるとか、貸してあげるとか、助けることになりますけれども、そういう事は、人間が、なるほど、出来るわけですけれども、ここで言う助かりは、どこまでも、信心によってなんですね。信心によって、助けることが出来る。ですから、なるほど、そうだなと、例えば、信心のないものでは、助けることが出来んのです。ここで言う、助かりということは。ね。水に溺れておるとを助けてあげたり、転んどるとを起こしてあげたり、いろんな事が出来ますはね。けども、ここで言う、教祖が仰るその、人を助けることが、有難いという事は、ね。信心によって助ける。信心によって助ける、芯からの助かり。人間が、本当の助かることのための、言うならば、お手伝いが出来る。いよいよ、ここんところでも、そうですけれども、助けるという事は、実際、人間には出来んのだ。ね。その手立てが出来るだけ。そのお手伝いが出来るだけ。人の助かることの出来ることのための道を付けてあげる事だけは出来るのです。それを、助けると、こう仰っていますね。ですから、この御理解を頂いてから、ほんに、そうだなぁと思わなければね、この御理解は、あの、こげんすると、病気が治るぞとか。こげんすると、そげんとかじゃない訳です。おかげという事は。
人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと。本当に、信心させていただくと言う事がですね。そこに、なるほど、人間でなからなければ出来ない事。人間が、その気になれば、誰でも出来ること。信心によって、人を助けるという事は、有難いと心得て信心せよと、という事を、ほんなら、どげな風な信心すりゃ、人が助けられるじゃろうかという事は、ここに説いてはないわけなんです。ね。ただ、お金を貸してあげたり、転んどるから起こしてあげたり、この助かりなら出来ますよ、誰でも。そら、信心が無かったって、例えば、ほんなら、信心をしよってもです。その程度のことなら出来ますけど、ここで助けると言うことは、そんなこっじゃ無いです。ね。私共が、本当に信心を頂いて、ね。人が助かることのための、言うならば、お手伝いが出来る。そういう御用が出来るという事は、有難いと心得て信心をしなければ。それが出来ると言うことになると、どういう事になるかと言いますとね。
あの、桂先生のお弟子に、日吉ツルという女の先生がおられた。まぁ、大変難渋な難儀を持っておられる方であった。ね。そこで、桂先生が、教えておられる、あの、「人を助けてわれ助かれ」と、こう仰った。人を助けて、われ助かれと。だからほんなら、日吉ツルという先生は、ね。今、言うほんなら、人の難儀なところを見て、金の無い者には、金を貸してあげたり、そういう事で助けなさったんじゃなかった。言うならば、一生懸命、拝んでやりなさった。一生懸命、お取次ぎを頂いてやりなさった。ね。一生懸命、自分が、その人の為に、修行をしてやりなさった。ね。そういう働きが、人間は、誰でも出来るんだという事。ね。だから、ほんなら、そう言う手立てだけでしょう、ほんなら、言えば、助けてくださるのが神様なんです。そういうことが出来るのが、有難いと心得て信心せよという事なんです。で、ここで、ただ人を助けると言うことの内容というものが、ぐーっとこう、押し縮められて参りますですね。転んどったから、起こしてやる、ね。水に溺れよったから、引き揚げてやる。なるほど、それも助けるけれども、それは、俗に言う、一般で言う助ける事、ね。そういう事でもです。そら、人間で無からなければ出来ませんけれども、どこまでも、ね。それが、有難いと心得て信心せよなんです。ここんとこになってくると、違いましょうが。だから、信心によるところの助かり、ね。信心によるところの助かり、信心によるところの助ける手立てと言うものをが出来ると言う事、人間は誰しも。だから、信心しとってもね、そこんとこに、ほんにそうだなと思わなければね。ほんにそうだなぁと思わなければ、次の働きになってこないわけなんです。だから、ここでは、そこんところを思わせる事の為の、いうなら御理解なんです。なるほど、せっかく信心させて頂いておるのであるから、人が助かることの為に、信心させてもらう。そういう御用に使うて貰う。そして、その人が、言うなら、真に、信心によって助かるですよ、ここは、だから。信心によって助かることの出来れる手立てをさせて頂こう。そういう、そんなら、働きをするとです。そこには、われ助かるというおかげがあるわけですよね。日吉先生の受けられたおかげがあるわけです。
人を助けて、われ助かる。ね。まぁ、金を貸してあげたり、またはあげたり、そげな風で、助けることも出来ますけれども。それではね、なるほど、喜ばれますけれどもね。自他共に、それで本当に助かるという事はありません。ある人が、金の無い人に、ちょっと、金を出して商売をさせた。おかげで、儲け出しなさった。もう、そこよりも儲け出しなさった。そしたら、あれどんがあーた、うちから金出してから、してやったつですよち言う助け方じゃったつん。そんなもんでしょうが。ただ、私共が、普通、信心をみて助けると言うのは。あの人は、あんた、溺れよるごたる時に、もう、死のうしゅうごたるとば、私が、ここに引き上げてあげたつですよち。あの人はあんた、そういう助け方です。あの、ね。信心を抜きにして助け方は。助けたことが、かえって困った結果になったり、ね。腹の立つ結果になったり、ね。だから、信心による助かりです。こらもう、根本的に助かっていくのですから。やはり、人を助けてわれ助かるという事が言えます。そういうことが出来るのが、人間だ。信心させて頂いてる者は、その気になったら、誰しも出来るのだと。それを、有難いと心得て信心せよという事なんです。
皆さん、よく、ね。隣の病人さんがおりますと、例えば、今日は、上野恵子さんが参って来ておられますが、すぐ近所のラーメン屋さんの奥さんが、もう、それこそ、もう、死を待つばっかりという状態のところを、見るに見かねて、主人の敏夫さんが、本人を連れて、ここに参ってきた。ね。それから、ちょいちょい、お参りをしてくるわけですけれども、もう、夜も日もなしに、もう、それこそ、横で見ておられんほどの苦しみじゃった。それがね、おかげで、まぁだ、きつい、食べるものも食べられんと言いよったけれども、その、きついきつい、言わんようになった。もう、横で見ておられんほどしの苦しみじゃった。ね。それもその、奥さんが、入院するところに、久留米のほうだそうですが、ずっと行っとりますから、お参りが出来ん。そこで、上野さんが参ってくるたんべんに、その人の為に、お初穂奉ってお願いをする。ね。だから、そこんにきまでぐらいは、合楽の方達は出来よりますもんね。けれども、せっかく、それだけのことが出来るのであるから、それから、本当に、助かられるところまで、一つ、やはり、打ち込まにゃいけませんね。ただ、お初穂をお供えしてから、お願いして上げよりますという様なことじゃ、助からんです。人が助かる働きにはならんです。ね。そのために、私が、いよいよ助かる。修行しよるから。
御理解二十八節の、最後の所に、「病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」と言う、最後の所がありますよね。人は、助かるほどし、自分も助かる、人も助かるほどしの信心は、絶対、元気な心で信心せよで無からなければ、助かりはしません。元気な心というのはね、いわゆる、生き生きとした心という事なんです。ね。ほんなら、朝参りしよるから、元気な心という訳でもないです。いわゆる、朝参り的信心ですね。いうならば、朝参りをする。御教えを頂く。その御教えが、生き生きとして、一日の自分の支えになるといったような信心なんです。
昨夜の御祈念に、いわゆる、最近は、椛目の康子達夫婦が、夜の御祈念に参ってきた。それももう、遅うから参ってきた。御祈念が済んで、御理解が終わったころ参ってきた。夕べ、私、ここへ出ておりましたら、あの、今朝方から、お夢を頂いたと言うのです。どげなお夢頂いたか。大きな松の木にね、朝顔がこうやって巻いとるところを頂いた。ね。松という事は、いわゆる、松の信心という事だ。まぁ、煎じ詰めると合楽の信心という事になる。もう、絶対、合楽の信心はね。朝参り的信心が出来なければ駄目だぞと。合楽の信心の、言うならば、真髄というか、芯に触れることは出来ない。朝顔というのは、ね。朝、ぱっとこう咲くでしょうが。もうそれは、見る者をして、目が覚めるような感じがしますね。朝露を含んだ朝顔が、こう咲いてる花を見ただけでも、目が覚めるような感じがする。松と言うのは、いわゆる、合楽の信心。ね。いわゆる、朝参り的信心。
今朝、夫婦でお参りをしております。私は、有難いと思うことはね。もう、私がいうのじゃない、神様が、いわば、お夢でお知らせをいただいとる訳です。意味が分からんから、その、ですけれども、そこで、私からヒントを頂いて、意味が分かったらもう、夕べは遅う帰りましたけれども、もう、明日から、いっちょ朝参りしましょうやと、恐らく、夫婦が話し合って、もう今日は、それを実行に移しておるわけです。私は、元気な心とは、そういう心だと思いますね。ね。いわゆる、元気な心で。だからこれは、必ずしも、朝参りという事じゃない。いわゆる、朝参り的とこういう、ね。朝、お参りをさせて貰う。朝の御教えが、一日を支えてくれるほどしの、だからほんなら、夜参ったっちゃ良い。夜の御祈念を頂く。夜の御理解を頂く。または、テープで、朝の御祈念を頂いておって、それが、朝まで持ちこたえられたらいいです。ね。朝参りが出来ない人は、だから、朝参り的信心なんです。ただ、帳面消しのごと、もう御祈念終えた頃どん参って来てから帰って、御理解も何も、だから頂かん。ただそれを、行のごと続けておるというだけでは、これは、大したことは無い。ね。
元気な心で信心する。そこでです、例えば、私は、人の難儀を助けるのが、有難いと心得て信心せよと言う、その、人の難儀が助かるという事。なら、金光教の信心によって、人が助かってくださる。こらもう、合楽だけのことじゃないですね。なら、教団の発展など、やっぱり、まぁ、皆さんも願っておられるでしょうけれどもです、ね。教団全体がですね、教団全体が、生き生きとした、人の助かることの出来れる機能というか、働きというものが出来る願いというものをさせて貰うという事。いうならば、願いが大きくなってくるわけですね。
昨日のあの、御理解に頂きましたように、ね。願いに始まって、願いに終わるのが金光様のご信心だと。私は、昨日は、実は御理解を聞いてもらいながら、ははぁ、今日は、初心の人、初歩の人達に対する御理解だなぁと思うた。和賀心にならんでも良い。ただ、和賀心になることに心を向けて、そして、願うと言う風に頂いたんですけどもね。けども、最後のほうに、段々なってくると、こらぁ、今日の御理解は、大変な御理解だなと思いながら聞いて頂いた。
ちょうど、午後の奉仕をしておる時でした。末永さんが、今日は、本当におかげを頂きましたと。学院で、まぁ、勉強させて頂きながら、分からないことがあった。一つも分からない事があった。それを、今朝の御理解によって、分からせて頂くことが出来たと言うのです。と言うのは、ここにも去年、あの丁度、佐藤さんが、ここに来とった時分でした。夏の休みである時に、本郷の三番手の息子さんでしょうか、やっぱ、一緒に学院に行ってますもん。なら、一緒に、一日ここに来て、ある意味でお話を聞いて帰りました。なかなか熱心で、非常に求道心に燃えておられる。学院で、その人の、安武さんの話を、まぁ、聞かせて頂くわけなんですね。それに、お爺さんが、あのような大徳な先生でありましたから、いわゆる、お爺さんですね。安武の松太郎先生です。それで、自分の小さい時のことですから、信心の、まぁ、話で聞いてはおるけれども、実際に、どういうご信心の方であったかが分からんので、その、お弟子さん方の教会を、みんな自分の目で、安武松太郎先生の信心を受けられた、直接、教えを受けられた先生方の所を回って、尋ねて回られたと。そして、それこそ大変な、その発見というか。大変な事を知ったと、こう言うのです。皆さんもご承知のように、玉水の、願いの玉水、お礼の甘木と言われるほどしに、もう、親先生自身の、例えばもう、信心には、お礼が八分とまで仰ったんですよね。後の一分と二分が、もう、お詫びであり、願いで良いと、こう言われた。その安武先生が、もうご晩年の頃はね、御神前に、ただ、拍手も打たずに額ずかれたっきりでね、ただ、口に出して願われることは、どうぞ、よろしくお願いいたします。どうぞお願いします。これの繰り返しやったそうです。だから、うちのお爺さんは、もう、お礼の、いや、甘木のお礼と、みんなが言うとるばってん、実を言うたら、願いの安武先生であった、願の甘木であったという事を聞いたんだそうです。だから、その意味が、どうしても分からなかった。ね。そして、なるほど、段々段々、信心というものが、その、私の場合でもそうです。お礼に徹する、お詫びに徹すると。そういう時代があってです。そして、昨日も、壮年会で、その事が話題にもなったんですけれどもね。とにかく、その、和賀心、和賀心にさえなりゃ、おかげは付いて来るんだぞと。願わんでも頼まんでも良いぞと。もう、和賀心になることだぞと、ね。だから、もうその、言うなら、和賀心を、ある意味では教学し、また、和賀心になることの精進を一生懸命させて頂く。ね。けれども、そこがね、人間なんです。結局はです、ね。勿論、その、和賀心になることに一生懸命だから、おかげも頂くけれどもです。それでも、なおかつ、願わなければおられない事が、沢山出てきたという事です。安武先生の場合は、そこなんです。ね。本当に、お礼を申して置きゃ、おかげも頂いてこられたわけなんです。けれども、いよいよ、その、信心が、高揚な事になってきたらね。願わなければおられない事になられてきた。しかも、願いに終始されたという事です。
なるほど、私は、昨日、皆さんに聞いて頂いた。願いに始まって、願いに終わるのだと。それが金光教だと。ね。ほんなら、その願いというのがです。いわゆる、生き生きとした元気な心。ね。人が助かることの為に、ただ、お初穂だけ奉って、その人の事をお願いしようといったような程度のことじゃ出来んち言うこと。その人の為に、例えば、祈るなら、願うのならば。その人の為に、自分が一つ、本心の玉を磨かせてもらい。修行させてもらうてです。自分自身が助かる手立てをね、いわゆる、助かるために精進させてもらう。そこに助かるおかげが頂かれる。そういうことが出来るのが、有難いと心得てと仰るのです、ここでは。ね。そこでです、私共の、ほんなら、願いというものは、願いにあけて、願いに暮れるという事が、始めから最後まで、同じであってはいけないことなんです。願いというものは、段々、高度なものになって行かなければいけないという事なんです。こちらの信心が、進むにつれて、その願いも、高度なものになってくる。
そこで、私共は、日夜、御祈念の言葉の中にも申しますようにです。天下国家のことから、ね。ほんなら、教団の立ち行きを願うわけですけれどもです。ほんなら、教団が立ち行っておるというだけじゃいかん。ほんなら、教会なら、教会が立ち行っておると言うだけじゃいかん。金光教の○○教会と、こう看板かけておるだけで、その教会の立ち行くおかげを受けておるなら、こら、全国の教会が立ち行ってるですわね、いうなら。けれども、ほんなら、生き生きと人が助かっておるという働きは無いです。何人かの、まぁ少しばかりの信者が、その教会が立ち行くことの為に、神様が付き合っとりなさるといったような教会が多いことに驚くのです。そこの信者は、そこの教会が立っていくために居るだけの様な事。教会が、本当に、人が助かっていくことのための場になっていないという事です。ね。ほんなら、教団もそうでしょうが。教団の立ち行きを願うと言うても、そら、教団が立ち行くと言うて、去年も百万の信者なら、今年も百万の信者じゃいかんでしょうが。
例えば、ほんなら、現在の金光教はどうかという事なんですよ。してみると、ほんなら、教団全体がです。教団全体が、生き生きとした、人の助かることの出来れる教団にならなければならないという事。もう、そのことを、私、昨日、末永さんに、その事を、本当に、甘木の親先生が、晩年の頃は、どうぞ、よろしくお願いいたします。お願いいたしますの繰り返しであったと。その話を聞かせてもらいよったらもう、私がもう、たった、それだけの事で、もう、感激してから、もうどうにも出来んごたる感動が湧いてきた。それから、教典の、いわば、概念化していっておる、現在の金光教という事について、これは、末永さんに、昨日いただいた御理解なんです。ね。今度のあの、金光教概説なんていうのが出来ましたよね。先年は、金光大神覚えと言った様なのが出来ました。ね。教典以外に、その、言うなら、完全なその、金光教というものに、段々、近付いて行きよる訳です。ね。ところがです、その、概念化して行きよるわけです。概念だけ。
言うなら、あらゆる大きな宗教がですね。例えば、持っておる、一つの弊害というものはね、そういう概念的なものが、言うなら、出来てくるに従って、生きたものを失っていったと言う事なんです。そういう、例えば、既成宗教が持っておる、そういうその、概念化するに従って、生きたもの、色彩をなくしていっておるという、そういうものをです。今の金光教も、少し、真似し出したという感じがあるです。そういう内容を、金光教が持っておるということなんです、今の調子では。これはもう、本当に、それこそ、硬化したり、それこそ腐敗してしまう恐れがあるという事をね。まぁ、それこそ、愛教精神です。私と末永さんと、その事を、一生懸命、話したことでした。ね。金光教概念といったようなものが出来て。はぁ、金光教とは、こんなものだな、こんなもんだぞと教えてあるわけなんです。果たして、そんなもんだろうか。決して、そんな事じゃないて。ね。ここのあの、御理解感話集が出た時に、秋永先生が、塗板の所に、あのこう、例の説明を書いてあります。ね。これはもう、本当に、ただ一口の御理解だけれども、うちの親先生が言われる言葉で、とてもとても、教祖様の御教えというものは、もう、二十何年間も、説いて説いて、説き明かしたけれども、まだ、解き明かせていないんだと。そのように、深遠なものなんだと、説明してあるでしょうが。もう、私も、それは、そう思うです。
私が、二十何年間、それこそ、この教典だけをですよ、説いてきたけれども、とてもとても、説き明かせるとは思われない、一生かかったって。と言うほどしに、深遠な、広大な内容を持っておるのが、教祖の信心なんです。ね。だから、教祖の心に触れると言うかね、触れながら、これが永遠の道に繋がっていかなければいけないです、金光教はどでも。ね。だから、その、教祖の魂の遍歴と、私は、この頃、いつか申しましたね。教祖の、例えば、概念書の本を読んだり、金光大神を読んでですよ。教祖のあられ方を真似するだけじゃ、何もならんです。それこそ、形の真似は出来ても、心の真似が出来んと言えば、おかげは頂かんとじゃろうもん。ね。いわゆる、金光教で、いわゆる、実意丁寧の化け物ばっかりが沢山出来るわけなんです。ね。ですから、本当に、教祖の、その魂の進展されてお出でられたその、魂をね、私共は、研究しなければいけないのです。しかもそれは、永遠の道に繋がるものですから。そこんところを、この、日々ね、味おうていけれる信心でなからにゃいけないのです。ね。だから、そういうところに、私共がです。まぁ、現代の金光教というものがです。どうも、概念的なものが、段々、完璧になってきたと。喜んで良いのか、喜んで悪いのか、私は、そこんところを思うです。ね。
ただ、教会が立ち行くだけ、ただ、教団が立ち行っておるだけ。何時も百万、ね。そういうことではです。人が助かることの教団という事に繋がらない。ね。そこで、人が助かることのためにの信心という事がです。私が、今、申しましたね。一人が助かることの為に修行させていただいて、それを、本当に有難いことだと、気付かせていただいて、そして、人が助かることによって、自分も助かる。そういう助かりの余波というか、余力というものがです、ね。教団に掛けられるところの、いわゆる、有給のおかげの所の願いといった様な事になってまいりまして、ね。教団全体が、そういう願いをかけられるところからです。教祖様の、いわゆる、あの、言う事は言うとです。教祖に帰れと言ったような事を言っておられます。という事は、それこそもう、生き生きとした、もう、それこそ、血が飛び出るようなね。そういう教祖の御時代の信心に帰れという事なんですから、ね。それが、ちょうどもう、お魚で言うなら、もう、乾物か、ね。干物というのがあるでしょう。魚の干物。干物か、まぁ、味付けて、煮付けたといったような味わいになりつつある様な気がするです。ね。びちびちしとらんです。ちょっと触れたら、パチッとこう、弾く様なものがない。ね、昨日、私が、朝、願うたんべんに、オイサミを下さるといった様な働きが、なくなって来よる。これなんかもう、突いたら、ぴちっとこう、弾き返ってくるようなもんです。ね。そういう、生きた神様を頂きながら、そういう、素晴らしいことを教えてくださっておる教祖様を頂きながらです。ただ、金光教概念が分かった。それで、金光教はこんなもんだといった様な事で、おしまいになる様な事では、なりませんのです。ためには、合楽の、朝参り的信心をなさっておられる方達がです。ね。そういう生き生きとした元気な心でです、ね。人が助かることの為に、信心する事をありがたいと心得て信心させていただきよったら。そういう、人が助かることのための信心が、段々、育ってまいりましてね。教団、全体の上にでもです、ね。いわゆる、カンフル注射でも打つような働きというかね。
こりゃもう、完璧という事はね。こりゃ、先日、私が、去年、青年教師の方達にお話をしたお話を、テープで聞きながら、若先生が、こんな風に言うんですよ。もう、とにかくね、言うとこないですよて。もう、削る所もなからなければ、かてる所も無い。もう、完璧ですと、こういう様な意味の事を言うです。話し聞きよって、そんな気がするんです。けれども、私が、また、後から考えてですね。けれども、あぁいう、私の信心の、過去の、いわゆる、幼少年時代、青年に入っての信心には、まぁだ素晴らしい、こういう所も、あぁいう所もあったと、ふっとあの、その日の夜の御祈念に思うたらですね。
あの、小石原焼辺りの焼き物に、薬がかかっておるでしょう、こうやって。垂れた様な薬が。もう、あれがもう、だらっと、薬がね、それが効き過ぎて、下まで、こう流れとる、一番下まで流れとるとを頂くんですよ、ね。あんまり薬が効き過ぎると、かえっていかんち言う。だから、あぁいうふうで、ちょうど良かち言うちから、言う意味のことを頂いた。ね。だから、私が、皆さんに、こうやって言うておる事がです、ね。例えば、ほんなら、私はその、特に私は、まぁだあの、金光教概説、金光教、何ですかあれは、概説ですか、西岡さん。金光教概説でしょう、あのタイトルは。で、パラパラパラッとこう、見せて頂いただけなんですけれども、何かその、概説というのが、私は、何か気に入らんとですよね。金光教が、これだけで、終えてしまうごたる感じがするんです。そんなことじゃ、決してないて、ね。だからね、先ず、ほんなら、私は、教団のことを、祈れ、願えと言った様な事を申しましたけども、先ず、ほんならです。ほんなら、人が助かることのための、言うなら、信心がね、出来て、本当に、教団のことも、そうして願わにゃならんと思うたぐらいで、ちょうど、良うはなかろうかと、こう思うですね。ね。そして、なら、合楽が、いよいよ、おかげを頂いていけばです。いうなら、合楽をもう一遍、検討しなおそう、見直そうと言った様な働きも、出来て来るんだと、こう思うのです。ね。そういう意味で、大きな、人が助かることのための信心にも育っていかなければならんけれども、先ず、何と言うても、第一、人の難儀が助かると。まぁ、一対一のことでも良いです、ね。自分の周囲の、あの人の事を願っておる。その、あの人が、本当に助かることのためにです。私共は、信心させて頂く事が有難いと心得て、信心出来るようになったらね、その事は、もう、一人よりも二人、二人よりも何人。例えて言うと、私が、信者時代には、こういう帳面を一冊持っておってですね。係わり合いのある人を、当時の、私の、夢のお届け帳です。その人の難儀な問題が、ずーっと書いてある。ね。そして、その人の名前が書いてある。そして、それを一生懸命、繰り返し繰り返し願わしてもらう。こら、まぁだ、私の信者時代です。だから、そういう、今から思いますとですね。人が助かることの為の信心が、まぁ、こう出来よったと言う感じが致します。ね。それを、有難いと心得て信心せよなんですから、ね。ただ、自分一家、自分ひとりだけの事の信心からです。ね。少しは、こうやって、はみ出して行くことによって、大きくなるのですから。はみ出していかなければならない。はみ出していくと言うてもです。ただ、なら、お初穂は、あの人のためにお供えしよると言うだけのものじゃなくて、願った手前、もうその、願ったなら、願っただけの信心をね。私共が、させていただくと言うような心がです。私は、元気な心だと思います。
人を助けて、われ助かる。いよいよ、そういう働きになってくる。だから、今日は、人を助けることが出来ると言うことを、大変違った、本当な意味においての、信心によって助かると。信心によって、助けることが出来ると言う、その事を聞いて頂いた訳ですね。しかも、それは、ほんなら、信心によって、助けることが出来るのだけれども。ほんなら、信心によって助けることが出来るけれども、私が助けることは出来ない。そういう、神様が助けて下さるのだから。神様が助けてくださることの、言うならば、橋渡しというか、手立てを、私共が、御用を承るという事になる訳ですね。どうぞ。